.マックス・ウェーバーと鈴木正三(しょうさん)と石田梅岩
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飯塚修三.
2015.09.04 執筆は2007年.
今年(2007)4月より団塊の世代の大量退職が始まりました。欧米の労働者ならハッピイ・リタイアといって万歳をします。ところが日本では退職で大喜びすると「欧米か」と頭を叩かれ、つっこまれそうです。
 マックス・ヴェーバーは『プロスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で従来は「民衆は貧しい間だけ、貧しいからこそ労働するのだということは幾世紀を通じて信条となっていた」と述べています。それでは、貧しくなければ労働しないのでしょうか。言葉をかえれば労働はパンだけのためでしょうか。

資本主義の精神とは『プロスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によると
○ 時間は貨幣だ(時は金なり)
○ 信用は貨幣だ
○ 貨幣は増殖し子を産むものだ。
○ 支払いの良いものは他人の財布にも力を持つことが出来るがその特性として取り上げられています。
 ここでいう資本主義の精神とは近代資本主義のことで、合理主義を追求する合理性をその特徴とします。

合理主義とは
○ 迷信、呪術からの開放
○ 自己規制に基づく生活態度の獲得
○ 現世を直視して、支配、改造、変革する
ことをいいます。

 そして近代資本主義の精神の誕生は資本主義が是認されている地域では決して起こらず、資本主義を否定する思想が支配する地域に生まれると説いています。いつも儲け話が話題とさえる商人根性の蔓延するところには近代資本主義の精神は誕生しないのです。商人たちの利益は倫理的に悪と考え、きびしく取り締まっていた地域に生まれました。

 そしてその商人たちを特徴づけるのは行動的禁欲です。ここでいう禁欲は禁酒、禁煙、禁異性のことではありません。行動力を伴った生活態度あるいは生活様式です。たとえて言えばマラソン競走のように一心不乱にゴールを目指しひた走りに走る姿です。神から与えられた天職として、利益の獲得を目的とせず世俗的な職業活動に専念します。しかも、贅沢をせず、節約してつつましく生活をおくります。

 ヴェーバー自身の筆で表現しますと次のようになります。
○利益を目的として追究するのは邪悪の極致である
○ 天職である職業労働の結果として利益を獲得するのは神の恩恵にかなうことである
前近代(金儲け)資本主義は四大文明すなわちエジプト、メソポタニア、インド、中国にもありました。しかし、その地域からは近代資本主義は誕生しませんでした。それは近代資本主義の精神が欠けていたからです。
 近代資本主義が誕生したのは文明の周辺地、すなわち西洋プロテスタントの諸国、北アメリカのニューイングランド地方でした。

 さて我が国では近代資本主義の精神は如何に誕生したのでしょうか。
1579年、鈴木正三は三河の国に徳川家の旗本として生まれました。関ヶ原、大坂の陣と武士として活躍しましたが、1620年(42歳)で禅宗に出家しました。
 厳しい修行をおさめた正三は在家の人々に「仏の教えは世のため人のためを考えて、毎日自分の仕事に励むことが仏の心につながるのだ」と説きました。
 一般の人は日々の労働があり、労働を休んで仏行に励むことは出来ません。そこで心がけ次第で労働即仏行となると正三は考えたのでした。
『四民日用』は士農工商の四民がそれぞれどのようにしたら成仏できるかを質問し、正三が答える問答形式になっています。
『商人日用』では商人が次のように問います。
「つたなき売買の業をなし、徳利を思い念じ、休む時なく、菩提にすすむこと叶わず、無念の至りなり。方便を垂れ給え」
正三は答えます。
「この身を世界になげうって、一筋に国土のため万民のためと思い入りて、自国の物を他国に移し、遠国遠里に入り渡し、諸人の心にかなうべしと誓願をなして国々をめぐることは修行なりと。(中略)一切執着を捨て、欲を離れ商いせんには、諸天これを守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の人となる。」
これが現代の日本人が働くのは経済行為だけではなく、勤労すなわち仏行修行という宗教的行動原理の基礎となっています。

 1729年、45歳の石田梅岩(1685〜1744年)は京都車屋町御池上ル所の自宅に講席を開いて一般民衆のために公開の講義を始めました。梅岩は布教にあたって聴講無料、紹介者も不要、通りがかりの人は誰でも身分や性別に関わり無く話が聞けるようにしました。その講義は1744年に60歳で亡くなるまで続けられました。
梅岩は元禄バブル前に生まれ、バブルの全盛と崩壊を経験しました。そして享保デフレを味わいました。享保の改革は元禄バブルの否定で質素倹約、奢侈禁止、武芸奨励が政策として掲げられました。これは当然に、景気の停滞と商業不振を招きました。
思想が生まれるのは好況期より不況期が多いようです。それは人々が反省し、内省するからではないでしょうか。梅岩と同じバブルとデフレを経験した平成享保の今、石門心学は再評価されるようになってきています。

 江戸時代の士農工商の身分秩序では商人は反社会的な存在とみられていました。しかし、経済的には「外見には日本中武家の所領なれども、其内実は商家の所領なり」という状態でした。梅岩は次のように説きました。「我が教ゆる所は、商人に商人の道あることを教ゆるなり」
「商人の道といえども、何ぞ士農工の道に替ること有らんや」彼はまた「なんじ独り、売買の利ばかりを欲心にて、道なしと言い、商人をにくんで断絶せんとす。何ぞ以って商人ばかりを賤しめ、嫌うことぞや」と怒りの言葉を書き付けています。梅岩は商人を社会の中で正当に位置づけようとし、商人にその規範を求めました。
彼はこれを士農工商に共通する基本的な「道(商人道)」を追究しました。利益追求という欲望を自制して、ひたすら消費者に奉仕することは合理性を求めることになり、近代資本主義の精神につながります。
現在日本人が特定の宗教にコミットすることなく、「道」を追究する宗教的態度は石門心学に由来することが大きいといえます。

参考文献
1. マックス・ヴェーバー「プロスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波書店、 1989年
2. 大塚久雄編「マックス・ヴェーバー研究」東京大学出版会、1965年
3. 山本七平「勤勉の哲学」PHP研究所、1979年
4. 山本七平「日本資本主義の精神」光文社、1979年
5. 小室直樹「日本資本主義の精神崩壊の論理」光文社、1992年
6. 石川謙「石門心学史の研究」岩波書店 1938年
7. 石川謙「石田梅岩と都鄙問答」岩波書店 1968年
8.竹中靖一「石門心学の経済思想」 ミネルヴァ書房、1972年  


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